続・トンツー談義(99) 電気通信大学同窓会誌に載ったトンツー談義の全編版 -生きていたモールス通信の功績
 高齢の同窓が古くから開拓されて世界的に広めたモールス通信が、記録集“トンツー談義”としての長年の実績が纏められ、このたび電気通信大学同窓会誌「調布ネットワーク」6月発行のVol.27-1号にその刊行の過程が掲載されて、全国の読者へ実績を周知されて、刊行先のわれら、目黒会北海道支部員一同、光栄です。
 本誌は、長年のトンツー通信の体験を、同窓の皆さんからの御実績で戴き全92号にまとめた記録です。
 
  トンツー通々信時代の記録として、この記録を、この際、是非、全国の会員皆さんの御座右にお残し戴きたく、お願い申し上げます。                                       

                                  杉目 暁 ( すぎのめ あきら )  kfb06422@nifty.com
 
  なお、本誌は目黒会北海道支部で扱い、メールでのお求めをお待ちしています。(残部あり次第)
     megurokai.hokkaido@gmail.com  目黒会北海道支部長 宮本孝宏          (27/6 SA記・写真)
 

 
| トンツー談義 | 2015.06.15 Monday | comments(0) | - |
続・トンツー談義(98)北の千島桜が満開で桜前線終焉 −いよいよ初夏ー
尾道天寧寺の桜」 5月のGWも終わる頃、北海道の東端・根室地方で厳冬を過した無線従事者の仲間から、最果てでしか咲かない千島桜が今年も花開いたと、花見の会へのお招きが来る習わしがあった。
 
 序列では日本では最後に咲くという千島桜が、いま満開だという。街の中央の狭い公園に数本育つそれは、少ない蕾は全てほころんではいるが、植樹したばかりなのか、細い枝に数えるほどの桜花が、車座の筵から見上げると、桜の木は精いっぱいの満開だった。
(写真は天寧寺の桜花、尾道の広報写真より)
 毎年、北国への桜前線は、道南の松前に4月の声を聴く頃から上陸を始めて、“北国の春”を告げてくれて、函館・白老・苫小牧から日高地方・襟裳岬と順次北上して、小樽・札幌から内陸部の旭川・北見へと徐々に広大な北海道の大地をピンク色に染めながら文字通り桜前線を誇示して北上するが、5月に入ると道北の比布(ヒップ)の峠を越えて最終開花地となる名寄から稚内に掛けて進めば、東では帯広・釧路などで満開になって、やがて、最東端の遅咲きの 千島桜にバトンタッチして終焉となる。
 
 5月というのに厚手のジャンバー・コートの襟を立てて、車座で真ん中のジンギスカン焼肉の炭火から暖を取って盃を交わせば、やがて、硬い口元も綻びて、誰れ彼れとなく来年の桜はどこで視るのか、異動希望先の故郷は、内地のどこか、いや、もう一年、この千島桜を愛でるのかと本部の小樽から参加のわれわれと視線が合う。
 各自が法定職員としての一・二級無線通信士あるいは技術士として活躍してくれるので、職場の通信網が維持できで必須要員だと誇りを持っているのだが、慰めようのないこの時である。
 
 時移り、あれから数年、私事で恐縮だが、この4月1日付で、亭主の配置換えで札幌での2年間の勤めを終えて釧路の社宅へ移った娘から、隣の根室の千島桜が満開の花を付けて、もう散り始めたと、LINEの通信網で一報を呉れたが、聴いて往時のトンツー職場を思い出した。
今は医療関係者なども、都市と地方の交代勤務を続けているようで、お疲れ様の模様です。
                                                                
(27/5 SA文・写真)
加藤辰二宅庭の薔薇
                                           (加藤辰二氏宅の薔薇、同氏寄贈)
 

 
| トンツー談義 | 2015.05.15 Friday | comments(0) | - |
トンツー談義(97) リンゴの歌 −青森りんご届く− 本科七期 岡田卓爾
 弘前でリンゴ園を営む同窓の岡田さんから、ご近況の詩文を添えてリンゴが贈られた。囲いリンゴというのでしょうか冬の端境期に貴重な品です。
 氏のリンゴは既にトンツー談義本の想い出の写真集でお披露目のとおり、先に目黒会ほか名入りのものを数個、一年かけて自作されて、あとを美味しく戴いた思い出があり、今般は全編版の発刊を祝っての陣中見舞で、関係者一同は大感謝です。


 担当の杉の目は高齢で車を捨てたので、目黒会北海道支部の事務所まで届けられなく、戴いたリンゴは小樽で開梱して他へは添付の写真だけで御勘弁願ったが、赤いのは秋の収穫時そのままの味で固く締まり、青いリンゴは柔らかく歯茎の弱い高齢者向きで食べ易かった。
  
弘前りんご ≪岡田さんからの書簡≫ 
拝啓 三月に至り北帰行、連日では千羽にのぼるだろうか
   
白鳥の群れが 残雪の津軽半島の平野で羽を休めています 
   準備してシベリアへ行くという。

 
 思えば昭和二十年四月、目黒へ行き、八月十五日、藤沢支所・本館前庭の炎天下の砂地に、不動の姿勢で終戦の詔勅を拝聴しました。あれから七十年の歳月になるという…。
「トンツー談義本」をいただきました。
 苦難の刊行、心よりお祝いします。北海道支部の皆様、ご苦労様です。
 ありがとうございます。

  モールス通信百余年の歩み、それを支えた先人の苦難、身に染みて涙しました。心より敬意を表します。
  リンゴを齧ってください!
  
        2015・3・22       弘前市 岡田 卓彌
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 1945年8月、ポツダム宣言の受諾で敗戦、前日まで敵軍との応戦下にあった日本、これからどう生きるか、各自が職業から自分自身の起居振る舞いに至るまで手探りで途を求めた。
 ふと口ずさむ唄にさえ戦意向上の詩歌だけが頭に残り、占領警戒中の進駐軍の兵士に聴かれたら銃口が向こうし、ただ、空襲の怖れは無くなって、昭和16年12月開戦以来、掛けっぱなしの座敷の真ん中から下げた灯火管制の暗幕だけ引き裂いて、窓外の相模湾にびっしりアンカーした星条旗はためく艦艇を呆然と眺めるだけで、身の置き所にさえ悩んだあの頃だった。 
 
 数日して、敗戦直後の東京へ出る機会があって、有楽町駅近くの焼け残りの街で、映画上映の呼び込みがあった。飛び込んだら広い舞台とずらりと並ぶ一人掛けの椅子で、戦禍の東京には、こんな立派な劇場が残ったのかと驚いたが、嘗ての帝国劇場ではなかったか。
 上映のフィルムは≪リンゴの歌≫の題名で、いまでいう歌謡ドラマか、内容は並木路子さん唄うリンゴの歌ばかりが流れた。
 先日、NHK-Gの放映で、その頃は進駐軍のCIE(民間情報教育局)の厳しい指揮監督下で、大晦日には初の紅白に別れての合唱が行われて、このリンゴの歌を筆頭に使ったと聴いた。歌合戦では戦闘語になるので紅白歌合唱で許可が下りたそうです。 
「リンゴの歌は戦後の気持ちを明るくしてくれた、私もよく唄いました」と昭和一桁生まれのメル友の彼女のメールにもありました。

 
   ≪サトウ・ハチロー作詞 万城目 正作曲 並木路子 唄 リンゴの歌≫ 
 前奏は行進曲風のC調で、本文に入ると柔らかいCmに偏移する、歌詞には初の戦時色の残らない新しい歌だった。
 
一、赤いリンゴに 口びるよせて だまってみている青い空 リンゴはなんにも いわないけれど リンゴの気持ちは よくわかる リンゴ可愛や 可愛やリンゴ  
二、あの娘よい子だ 気立てのよい子 リンゴによく似た可愛い娘 どなたがいったか うれしいうわさ かるいクシャミがとんで出る リンゴ可愛や 可愛やリンゴ (以下略)
                                         (27/4 SA追記と写真)


 
| トンツー談義 | 2015.04.15 Wednesday | comments(0) | - |
続・トンツー談義(96)号 戦い終わって -戦後のわたくし-
顕彰旗輝く巡視船 昭和20年8月15日に終戦になると同時に、青森県の古間木駅(現在の三沢駅)から貨物列車(無蓋車)で一路故郷の佐賀に向け帰りました。途中どの様な事があったか覚えていませんが、トンネルを潜り抜けた時はお互いの顔が真っ黒な煤だらけになり、顔を見合わせて笑いあった事を覚えています 。
 9月中旬、戦時中に中途退学して海軍に志願したので再入学の案内書が届き、10月1日から元の中学校に入り勉強することになりましたが、たまたま日本近海に投下敷設された機雷掃海のため旧海軍の第二復員局(以後二復という)に掃海部が新設され、それに誘われて佐世保
地方掃海部に勤務する事にしました。これは、掃海艇(旧海軍駆潜特務艇、以後、駆特という)が2隻で電纜を引き磁場を作り、投下されていた機雷を爆破処理すると云う作業でした。私はこの駆特乗船は希望せずに、佐世保駅前の白南風小学校の講堂の一部に開設の電信課に勤務しました。当時は九二式特受信機だったと思いますし、三式受信機?も在った様な記憶があります。これらの受信機は受信する電波の種類によりコイルを7個位差し替える必要がありました。間もなく海外からの引き揚げが始まる事になり、二復に「佐世保地方引揚援護局電信課(JMG)」が設置され其処に移動しました、送信所は針尾送信所でした。外留法人や軍人の引き揚げ業務に当たると共に掃海業務の通信にも当たった様に記憶していますが、定かではありません。海軍時代に『無線通信士』と云う資格がある事は知っていましたが、此処に来て初めて必要になって、私達は全員三級無線通信士の免許が与えられ、やがて二級や一級の上級資格を国家試験で受けなければならず、海軍では単に送受信が満足に出来れば事足りたのですが、国家試験となれば内外法規、無線機器、英語等、勉強した事の無い問題が出るので旧海軍の者には難関中の難題でした。
  昭和22年春、引き揚げ援護業務終了に伴い解散となり、私も依願退職しましたが、10月頃、旧海軍艦艇の保全業務として二復に管船部が発足し、再び佐世保管船部に入り佐世保港に保管中の駆特173号の保船に当たりました。使用できる駆逐艦や海防艦等は次々に戦勝国に引き渡されて終戦処理に当たりましたが、海保大の練習船「こじま」は当時の海防艦だったと記憶しており、また海保校の練習船「みうら」は当時の大型曳船でした。ほかに佐世保港のヱビス湾には戦争末期に建造中の空母「じゅんよう?」がブイに繋留保管されていた様に記憶しています。

 
  その後、仕事は海上保安庁へ引き継がれて、舞鶴の海上保安学校特修科に入り、在学中に上級資格の取得に挑戦して二級までは何とか合格できましたが、一級は英語が最後まで駄目でした。これは戦時中、国策として『敵性語の英語禁止』となり全く身近に接する機会が無かったから、当然と云えば当然だと思い諦めました。又、国際通信として500kcが存在する事も初めて知りました。海保校特修科での研修は昭和27年4月から同28年3月迄で、右は当時の写真で稲垣次郎さんが学校長だったと記憶しています。正門付近はまだ冬景色でした。卒業証書は代表して受け取りました。
 その頃、韓国にコレラが発生し、これを水際で防御する為、昭和23年不法入国監視本部が当時の運輸省に設置され、賠償対象にならなかった駆特28隻で韓国からの密航密輸を防ぐ監視取り締まりに当たる事になりました。昭和23年5月1日にはこの監視本部が運輸省の外局としての海上保安庁となり、保安局、水路局、灯台局の3内局と全国を9管区本部に分けて現在に至っています。私が乗っていた駆特173号も巡視船に改造する為、昭和23年秋、佐世保基地から浦賀造船所へ回航し約1ヶ月かけて巡視船≪おおたか≫と命名され、高松海上保安部へ配属されました。私は故郷が佐賀県でしたので唐津海上保安署配属の《やまがら》に転船しました。 
 以後、玄界灘におけ以後、玄界灘における最前線の巡視船として昼夜、分かちなく巡視哨戒に当たりました。当時、厳原海上保安部(対馬)には巡視船の配備が無かったので、第七管区内の各海上保安部所属の巡視船が交代で1ヶ月間派遣され対処していました。発足当時の巡視船は木造船だけでしたが、暫くしてGHQ の許可が出て鋼鉄の巡視船が新造される様になり、最初は270屯型でしたが順次大きくなり450屯が出来、我々乗組員の日夜の巡視哨戒業務も随分楽になりました。昭和38年には木造巡視船は廃船となり、総て鉄製の巡視船となりました。現在、発足当時の駆特の木造巡視船に乗った人も少なくなり段々寂しくなりました。
 上の写真は、
昭和30年10月、唐津海保の「つぐみ」乗船中に本庁の特別検閲(長官検閲)を受け最優秀とされ長官表彰を受け、マスト上部のコンパスマークの庁旗の下に細長く翻っているのは『顕彰旗』です。基地(唐津港)以外では何時も入出港時にはこの様にしてマストに掲げていました。そして翌年の観閲式には参加の為東京まで行きました、駆特で行くのは大変でした。
下の巡視船は、元は旧海軍所属で「飛行機救難艇」と呼んでいました。私は航空隊勤務では無かったので良く知りませんが、館山海軍航空隊にはあったようです。館山海軍砲術学校とは随分離れていましたから海軍時代に見た事はありません。海保に配置された唯一の鉄の船でした、これと同じく鉄船で「曳船」も在りましたが殆ど外洋での巡視哨戒の任務には就いてはいません。昭和36年2月に唐津海保へ配属換えとなり私は同年2月1日付で「むらちどり首通士」となりました。
 又、当時の対馬海峡には韓国が一方的に「李承晩ライン」を設け、このライン内で操業する日本漁船は、韓国警備艇が強制的に排除し拿捕に至るので、日本漁船の保護にも当たりました。韓国警備艇の通信を傍受し、その動静を把握し操業中の日本漁船に対し、韓国警備艇の動静を通報して拿捕されない様、注意喚起していましたが、屡々漁船の退避か遅れ拿捕されそうになった時は、急遽日本漁船と韓国警備艇の間に割って入り漁船を保護していました。韓国警備艇から銃撃を受ける事は覚悟の上で、再三再四その様な事態に遭遇しました。
 又、台風接近の情報に接し早めに避難していても、巡視船は、一旦遭難船の情報が入れば有無を言わさずこれの救助のため、直ちに緊急出港して荒天下のもと自船の難航も顧みず救助に向かった事も何回かありました。巡視船は海上警察権を持つ機関のためと乗員不足の補充で転勤が激しく、全国各地を大体2〜3年位の間隔で異動しました。その関係で、私は北海道から沖縄まで勤務しました。昭和50年4月に紋別海保「そらち」へ、昭和52年には網走保安署「ゆうばり」勤務と続き、オホーツク海側の海上保安部署へ各2年間勤務しました。初めての北辺勤務で特にオホーツク海は冬になると流氷が来るので流氷観測と、流氷に閉じ込められた漁船の救出にも当たらねばなりません。巡視船自体は砕氷船ではなく耐氷船ですので流氷群に閉じ込められない様にしなければならなく、閉じ込められたら砕氷能力が無いので自船での脱出は出来ません。流氷群の中の薄い氷を砕きながら航行する時は、水線下の船内にいる人はドラム缶の中に閉じ込められて、外から大きなハンマーで叩かれている様な感じで、これは経験してみなければ分かりません。網走海保の「ゆうばり」時代に入港を目前にして厚い流氷群に取り囲まれ航行不能となり、流氷と共に沖合迄流され一夜を過ごした事もありました。この様にオホーツク海側の巡視船は冬期(大体12〜3月)になれば、流氷派遣と云って道南(函館方面)に回され留萌から羅臼海域での巡視哨戒の業務に当たります。3月末に流氷開けとなれば自分の担任海域に戻り通常の巡視哨戒に当たりますが、丁度4月の異動時期と重なるため転勤者は家族を含め大変忙しい時期となります。
 

 北海道勤務中の出来事として取り立てて記録する事件はありませんが、思い出として前記のオホーツク海の流氷観測、釧路沖の火災漁船の消火活動、それに稚内でのソ連漁船への立ち入り検査などで、後は一般の巡視哨戒に併せて知床灯台職員の定期的交代などではないかと思っています。知床灯台職員と共に上陸し灯台まで熊に襲われない様に鈴を鳴らしながら約1キロ位の原野を歩いた事など、今も記憶に残っています。昭和54年4月、故郷近くの門司海保の「きくち」勤務となりましたが、都合により「くにさき」に臨時乗船勤務し、この間沖縄の「タンカールート」の監視業務にもあたりました。振り返れば、私の人生は昭和18年から同60年の定年退職まで42年間、国のため国民のため尽くすよう、我が人生は予め定められていたと思います。       (27/2 中尾照男 文・写真)
 
| トンツー談義 | 2015.03.15 Sunday | comments(0) | - |
続・トンツー談義(95) 海軍時代の記憶 −山岡部隊のことー
 新設の防府海軍通信学校で第一期生としてトンツー通信の技術を習った私は、課程を終えて海軍の電信兵として佐世保海兵団に復帰しましたが、ここで佐世保第101特別陸戦隊々員に選抜されて、特殊訓練を受けるため軍用列車で移動しました。着いたところは千葉県の館山海軍砲術学校で、山岡部隊と呼ばれました。
 当時の日本国民の心境と現在の環境とは雲泥の差があり、その頃は勇躍参加して、今の方々には到底理解出来ないこととは思いますが、「続・トンツー談義」に自分の通信史の一片として残させて頂きます。
 
 
この部隊は、夜間、大型潜水艦(伊400型)でアメリカ本土の西海岸に隠密上陸し、敵兵舎を爆破すると云う特別陸戦隊である事を後で知りましたが、当時のアメリカ海兵隊々員に似た任務を背負っていたようです。
 その為、服装はアメリカ海兵隊々員ソックリで、髪は長髪にしてカラーのワイシャツに薄い紺色のネクタイを絞め、靴は編上靴と半長靴で、外出する時はいつも、この服装で海軍の軍服を着て上陸する事は滅多にありませんでした。現在90歳前後で館山市在住の方は未だ記憶のある方もいらっしゃるかと思いますが、当時、館山市内では幻部隊とか忍者部隊とか、評判になっていた様でした。


 当時の陸海軍々人で長髪の者は居ませんでした、或る時、物資補給のため横須賀の補給部へ行った時、夜、映画を見に行きました、映画館は満員で私は端の方に立って見ていましたが長髪のため軍帽を被ったままでした。そのうち後ろの方から「其処の兵隊帽子を取れ」と云う声がかかり帽子を取り最後まで映画を見て帰ろうとしたら、腕を強く握られ「この髪は何だ」と長髪の髪を引っ張られたので、「私は館山砲術学校に居る山岡部隊の者です、司令の命令で髪を伸ばしています、海軍の軍令部に問い合わせて下さい」と言い、そのまま約15分位したら「帰って宜しい」と無罪放免された事を今でもハッキリ覚えています。編者註:当時、呉海軍通信隊副官の廣丘大尉も綺麗に分けた長髪で当時は驚きましたが、訳ありだったのでしょうか。(トンツー談義全巻P.132
 
 館山の軍事施設の由来を記した「館山基地物語」にも幻部隊とか忍者部隊として一時記載されていた様です。私達の宿舎はこの砲術学校の一番奥にあり奥兵舎と呼ばれていました。
 此所での訓練は以上のような目的のため、日常の簡単な英会話、英文の判読、及び野外訓練としては夜間訓練が主となり、日没時から夜明けまで南房総の山野を歩き回り、体力増強、方向維持訓練及び忍者の様な夜間訓練だけでした。これは予め2〜30キロ先に目標物を置き、日没と同時にその目標物に向け地図と磁石を頼りに5〜6人が一団となり行動を始めます、そして目標物の傍に「爆薬」と書いた紙片を置いて夜明け迄には宿舎に帰らなければなりません。
 

 当時の思い出話として、現在も海自の「隊友会」の集いの席上で必ず話題になるのが、各自、約10キロの砂袋を背負い、館山から靖国神社まで2泊3日の往復徒歩行軍でした。全行程約200キロ弱で、1日5〜60キロを目標に歩いた事になります。誰一人として落伍者は無く無事この訓練の成果が出た事は、今も語り草になっています。
 
 我々電信兵の通信訓練は、当時、陸戦隊で使用していた「TM軽便無線電信機」なるものを使って各小隊間の状況を交換しました、通信文は簡易に我々が独自に作った省略文を作成し、それを使用しました。その後、間もなく「空3号」とかいう無線電信電話機が配備され、TM型に比べたら比較にならないほど軽く電話通信もできて便利になりました。これは背中に乾電池(約3キロ位)を背負い、首から無線電信電話機本体(約1キロ位)をブラ下げ、電話か電信で通信するものでした。今思うと、現在の「携帯電話」のハシリだったようです。
 この時、初めて「ミニチュア管」なる超小型の真空管を見ました。これに比べると旧型のTM軽便の本体は約10キロ位、電池が約20キロで、2人で担いでいました。これは、何時も若い私と同年兵の久留との担当でした。それでも身軽な他科の隊員に遅れまいと必死について回りました。
  
 昭和20年の初頭、戦況は悪化し我が部隊が使用する大型潜水艦、伊400潜は総て撃沈され、急遽大型航空機(1式陸上攻撃機30名乗り、略して1式陸攻)を使用することとなり、攻撃目標も当時B29の航空基地であった「テニアン」島に変更されました。
 これはB29の翼に弁当箱位の爆薬を吸着させ爆発炎上させると云う戦術に変更されて、訓練場は砲術学校の向かい側に在る「平砂浦」と云う砂浜に、B29の翼に見立てた高さ3m位で大きさ2m四方のジュラルミン製の板を設置し、それに吸着爆薬を吸い着けさせてB29を爆破するという訓練が続きましたが、当然生きて帰れぬ「特攻隊員」であることには変わり無かったです。
 又、この平砂浦で『ロケット』の試射実験を初めて見学しました。これは電柱の様な丸太棒を2本並べた上に長さ約1m位、直径約20儖未離蹈吋奪箸鮠茲察点火すると火を噴きながら飛び去ったもので、これが現在のロケットのハシリでした。
 戦況は益々悪くなり、愈々出動体制を整える事となり20年6月には青森県の三沢海軍航空基地へ移動し、全国から1式陸攻機30機が集められて7月中旬の月夜に乗じて実施と決定されました。然し7月上旬アリューシャン方面から南下したアメリカ機動艦隊の艦載機による攻撃で、駐機中の1式陸攻機は総て灰燼に帰し実施不能となり、再び全国から30機を集め8月20日の満月の夜が決行日と決定されました。最後の燃料補給基地は木更津航空基地で、特攻機であるため燃料は当然片道分の搭載となり、一方、隊員は総て特攻隊員であるため、それぞれ故郷の肉親宛の遺書を書き、封筒の中には髪毛と爪を入れ、準備万端で死出の旅の準備を整えて、出撃の日を待つのみとなりました。
 一方、テニアン飛行場の詳細な状況把握のため撃墜されたB29の搭乗員(捕虜)10名ほどが私達の兵舎の一隅に居り、食事後、食器洗いの時等お互い顔を見合わせ、段々慣れてくるに従い煙草を一緒に吸った事もありました、私は当然、英会話は出来ませんので話をした事はありませんが、この米兵からテニアン飛行場の詳細を聞き出していたようです。
 

 幸い昭和20年8月15日、天皇陛下の終戦の詔勅が下り、山岡部隊は即刻解散となり、翌日、古間木駅(現在の三沢駅)を出発し、九州の故郷へ向うことができました。
 

 一緒に遺書を書き、死の直前に幸い生還できた私どもは、現在は高齢で生存者は少なくなりましたが、この部隊は編成当時から前記の様に特殊部隊であった為か、軍律厳しい中でも和気藹々と暖かい家庭的な雰囲気で青年期を過ごさせてもらえて、私にとっては大変幸せな事でした。
 

 現在、何かにつけ戦争当時の苦しみが語られますが、戦時中に私の様な家族同様な軍隊生活を過ごせた者には、幸い、その苦しみを味わっていないので語る事はありません。編成当時から特殊な任務を持った特攻隊員として「死ぬ時は皆一緒」と云う空気が流れて、上下の差別も殆ど無く、当時の司令始め各小隊長・分隊士から「制裁教育」は固く禁じられていたからだと思います。右の写真は潜水艦でアメリカ本土上陸を目指していた当時の写真で『遺影』になる予定でした。                                     
(以下次号へ 27/2中尾照男記・写真)


S17秋館山空にて
 
| トンツー談義 | 2015.02.15 Sunday | comments(0) | - |
支部新年会兼「トンツー談義」発刊記念会が開催されました。
去る、平成27年1月24日(土)小樽にて支部新年会 兼 「トンツー談義」出版記念会が開催されました。
「トンツー談義」の著者・編集者であります杉目先輩が、冬場の外出が難しいということで残念ながら参加されなかったのですが、梅澤さんをはじめ支部の仲間7名が集い、おいしい料理とお酒とともに楽しいひと時を過ごしました。


 


今回は、昨年夏の支部総会で特別講演をしていただいた、小樽商科大学で准教授をされてるファロウクさんも参加され、なぜ日本人は英語が得意にならないのか議論に花が咲きました。

また、会場では「トンツー談義」の頒布も行われ、多くの会員諸兄に購入いただきました。この場をお借りしてお礼申し上げたいと思います。ありがとうございました。


    
また、会の運営が至らず一部の会員の方々に開催連絡のメールが届いていなかった様で、大変申し訳ありませんでした。夏と冬の2回にこだわらず、親交を深められる機会を増やしていきたいと思います。今後とも、皆さんで同窓会を盛り上げて行きましょう。
| 同窓会 | 2015.02.08 Sunday | comments(0) | - |
続・トンツー談義(94) 刊行本への感想文集−創刊の本を読んでー  
☆1 後藤 芳信さん(小倉北区)    以下、括弧内は居所です(ほぼ到着順)。北本徹さん寄贈
 12月14日「トンツー談義」が配達されました。本の表紙から想いで写真集まで、杉目さんの気配りが行き届いていて感服しました。どの原稿もページごとにピタリと納まっているので、編集作業は内容をよく読んでから字数を考えてせねばならず、時間と手間が大変だったことと推察します。投稿した私の原稿と読み比べてみて、お見事というほかありません。 
                                
(北本徹さん提供)↑
  

 自分の書いた文章が読み易い印刷された本になって手元に戻ってきたので、『ああ、俺にもこんなバリバリの現役時代があったのだ』と、何回読んでも嬉しい限りです、ありがとうございました。
 同封の本は読んでみて面白かったので私の勝手な判断で、もしや杉目さんなら御興味があるかもと愚考しまして贈呈します。編者註『機関車に憑かれた40年(向坂唯雄著・蒸気機関車は生き物)』と『短現の研究(市岡揚一郎著・予備学生の生涯)』の2冊で、両書とも初めてで参考になりました多謝です。  

 私の体調はいまやガタガタになってしまい、手足は痺れがひどく、転倒の畏れがあるため介護タクシーで一日おきに左胸の消毒、ガーゼの交換に通院中です。パソコンも自由に操作できなくなり手放しました。暇つぶしにはまり込んでしまったのは読書で、佐伯泰英の文庫本時代小説で、密命シリーズ、吉原裏同心シリーズ、居眠り磐音江戸双紙シリーズ、鎌倉河岸捕物帳、酔いどれ小藤次留書等、時間の経つのを忘れて読み耽っています。(26/12/18
 
☆2 久田 富治雄さん(大和市) 北日本は全域雪模様で新年も寒波厳しい予報ですが、いかがお過ごしでしょうか。小樽駅前の雪の下り坂で何度も転びそうになったのを思い出します。毎年、夏は北海道へ行きながらいつも失礼のままで誠にすみません。加藤辰二さんから、お元気の御様子を伺ってはおりました。
 12月15日、立派に印刷された「トンツー談義」拝受しました。ようやく通読しましたが入念に編集されて見事な出来栄えに感服しました。私の同期の文集「航跡」も、もう少し丁寧にすれば良かったと後悔しています。
 私の準備室勤務の頃の海上保安庁法案のガリ版印刷でJGCにお世話になったことなど加えていただいて、ご高配まことにかたじけなく、心からお礼申し上げます。巻頭の檄文・序文を拝読してトンツー談義の大きな意義がよく判りました。また、巻末の想い出の写真を拝見しながら感銘を新たにしました。
 正月中、改めて拝読して、トンツーを礼賛しながら私が海保の設立準備室に採用されたのは、トンツーのおかげでした。自分自身の想い出とも併せて回想を楽しむことにいたします。回想に時を忘れてページが進まなくなって、忘れていた思い出が甦み返ったりしています。
  いよいよ新年を迎えながら、後世に残る見事な「トンツー談義」を大成されて、今は、さぞ安堵しておられることでしょう。改めてこころからお慶び申し上げます。後略 (26/12/28)
 
☆3 故・浦 宏吉さんの奥様(後志郡余市町) その節は大変お世話になりましてありがとうございました。本日は立派な御本をお送りいただきまして懐かしく読ませて頂いております。このような立派な御本を編集なさいました杉の目様の御苦労を思いますと頭の下がる思いでございます。小樽無線人会の皆様や主人の写真を視ますと、もう三回忌を過ごした気持ちにならなく、まだ私のそばでモンクを言っているようでございます。目黒会北海道支部の皆様方のお力添えに感謝の気持ちです。敬具  (26/12/13 浦 鞆枝

☆4 小田原 敏介様(武蔵野市) 元目黒会事務局長 一高一期卒 クラス会閉会後級友との連絡も途絶えがちになりましたが私も卒寿過ぎの老いぼれになりましたが、今のところ何とか体調維持に努めながら日々平穏にすごしています。 
 
☆5 味澤 平昭様(岡谷市) 元郵便局長で逓信官吏練習所卒 T9生 今年の信州は御承知の通り、御嶽山の噴火、長野北部(白馬、小谷村など)地震などいろいろありましたが、余り良いニュースは無く、県民は「ほっと」した気持ちで26年を送ることでしょう。この度は素晴らしい「トンツー談義」モールス通信百年余年の歩みの宝物を御送付賜り厚く御礼申し上げます。宝物の御本は知識と経験が豊富で、兎に角、動くことが気にならない人でなければ生まれません。杉目さんは最高の最適任でございます。ご苦労様であったことは、ひしひしと手に伝わって来ています。18:10:1日から今年まで長期にわたって毎月、毎月、立派な原稿で大変なご苦労様だったことでしょう。御苦労の結晶を心して拝読させていただきます。   
 杉目様のように「世界を股にかけ」の仕事ではありませんが、戦後、間もなく製糸業が復活した頃は(疎開した時の仕事を続けた工場を除き)岡谷郵便局も電信の取り扱いが多く、大勢の電信マンがおり、夜中にも外務と内務と二人の深夜勤務がいてトンツーの仕事をしていました。

 昭和24年に電気通信省が誕生しても3年以上は旧局舎にいて電信室があり、電報の仕事は全部そこでやっていました。そこで世話になり懐かしくその人たちと今でも交流しています(後略)
 
☆6 石川 道夫様(横浜市磯子区) 航海訓練所練習船通信長 電通大卒。
 この度は「トンツー談義」をお送りいただき、大変ありがとうございました。皆様のご健康と御活躍をお祈りいたします。(26/12/29)
 
☆7 古川 恵造様(横浜市港南区) 続・トンツー談義(93)の原稿を寄贈。昔の同僚の消息追加します。 
 七管区でお世話になった三浦 豊さんは、私がセナーへ転出したのち長崎保安部次長で転出されたそうです。速水基衛さんは私の一期先輩ですが、セナー転出の数年後に彼の故郷の滋賀県の自治体に転職されましたが、その後の音信は途切れて現在に至っております。
 
☆8 前田 政昭様(和歌山県東牟婁郡) 海保大六期・海保本庁航空課長で定年
 トンツー談義拝受しました。力作ですね。私も海保大入校そもそもからトンツー暗記にノイローゼ気味となりかけたのを想い出します。二年生の実習航海では実際にJELV(練習船こじま)からJNV(広島海保通信所)を呼び出したとき「へたくそ代われ」とやられショックでした。
当地は暖地で杉目様から羨ましがられましたが、その象徴であった黄金色の蜜柑もほとんど見られなくなりました。海保は保大卒が長官になるようになり、中国の海洋権益への新出に対し、石垣を始めとして体制強化が進行中です。私の在任中と比べて大増勢とか反動が怖いです。(後略)
 
☆9 小林 也(ナリタカ)(大和市林間) 海保大四期・海保本庁通信課長で定年
 編集後記に通信職は主でなくて従とあるが今の海保は通信が主体で動いている。長官と第三管区(横浜)本部長に通信専攻の後輩が就業している。是非、刊行の「トンツー談義」を贈ってやってください。僕は全身不調で療養中なのでよろしくとのこと。 
 
☆10 中尾 照男様 (福岡県京都郡苅田町) 続・トンツー談義(92)の原稿を寄贈。週一回リハビリセンターへ通院中とのメール受け。
 
☆11 平松 扶二雄様(福岡市西区) ご無沙汰致しておりますがお元気の御様子何よりです。今回はトンツウ談義をお送り頂きありがとうございました。当時を想い浮かべ懐かしく拝見しました。
 もう一度お逢いしたいと思へども寄る年並みには勝てず、家に引きこもっております。
 今年は特に北海道が大雪で大変でせう。どうぞお変わりなくご一家の御多幸を祈っております。
 
☆12 大岡 仁様(藤沢市辻堂) 電通大名誉教授故大岡茂先生のお子様。
 お変わりなくお元気にお過ごしのことと存じ上げます。今日は「トンツー談義」をお送り戴きありがとうございました。ページをめくっているうちに国民服姿の亡き父親をみつけてびっくりしました。終戦直後、私も辻堂に住んでおりまして、父も色々な事件(?)を経験していたようでした。当時、私がお世話になりました長尾先生も今年お亡くなりになり淋しい限りです。どうか、お体を大事にして下さるようお願い申し上げます。  

☆13 小森 義晴様(下関市) トンツー談義ありがたく戴きました。海保の生い立ちなど改めて良く判りました。さらにしっかり読ませて頂きます。26/12/20メールにて。後略。                       (以下、次号へ続く)



 



   

 
| トンツー談義 | 2015.02.01 Sunday | comments(0) | - |
続・トンツー談義(93)わが無線人としての生涯 寄贈 古川恵造さん
  
前略ごめんください。
 
昨日は思いがけなく立派な装丁の「トンツー談義」全刊一冊を頂戴いたしました。私の今までのとぎれとぎれの想いでが、これを拝読することにより余すところなく補完され、大変懐かしく、ついつい第91編の最後まで読み耽ってしまいました。
 これからも頂戴した『トンツー談義』は、私の手元に置いて繰り返し読み返させて頂きます。
                                     古川さんと久田さん  
               (
JGC会での古川さんと久田富治雄さん)→    

 私は戦時中、海軍の志願練習生となり、航空機搭載用の無線機を保守・整備する訓練を受けておりましたが、敗戦で復員となりわが家へ帰ったところ、
B29
の横浜大空襲により一面の焼け野が原となり、わが家は跡形もなく、付近は焼けトタンのバラックが点在していました。母と弟・妹は親戚を頼って北海道へ疎開していて、父は小さなバラック小舎に独りで暮らしていました。そこへ兄が海軍から復員して来たので、三人で何とか生活を立て直そうとしたのですが、敗戦後の混乱期で求人する会社も無く、細々と日雇いを続けながら飢えを忍んでいました。
    
 このような時に無線講の生徒募集の公告を目にしました。授業料の免除・生徒手当支給・と言う条件は私が発する良いチャンスと入学試験を受けましたが、幸いにも合格して無線電信講習所藤沢支所に入所して生徒寮に入ることができました。
 
 同級生には私と同じ軍隊経験者も少なくなく、軍隊でモールス符号を習得している者も相当数いましたが、私はモールス符号は初めての経験なので送信や受信の授業は既得者とのギャップが大きく苦労しました。
 私のような通信術の劣等生のために名取教官は放課後にモールス符号の受信補修を実施してくださいました。私はこの補修に毎回参加して何とか落ちこぼれだけは免れることができました。
 
 無線講に入学した時は「卒業すれば無線通信士の国家資格が付与される」筈でしたが、電波法の改正・制定で国家試験をパスすることが必須条件になりました。私は通信術の補修のお蔭で無線通信士第一級の国家試験をパスすることができ、海上保安庁の職員採用試験にも合格することができました。
 
 海保に採用されて初任地は北九州市門司区の駆潜型巡視船“おおたか”でしたが、一年一か月の乗船勤務の後に本庁の中央通信所へ転勤を命ぜられました。
 中央通信所は各管区本部との間に専用有線回線を各一回線が設置されていましたが、電信回線は手送り・手受けのモールス通信で電報の送受が行われていました。
 たまたま李承晩ラインや朝鮮戦争の勃発などの影響もあって電報量は増加の一方でしたが、有線通信にテレタイプを導入することにより処理能力と正確性が飛躍的に向上しました。

 その頃、海保で通信に従事する職員の技量向上を計るため通信競技会が毎年開催され、管区本部で選抜された選手が本庁へ集まって全国一を競い合いましたが、私も本庁代表として競技会へ出場し何と一位を獲得して長官から賞状と賞品を授与されたことがあります。
 私より優れたトンツー通信技量を持った先輩は沢山おりますし、特に十代の頃、少年電信兵としてモールス通信を身に付けた人は神業のような腕前を発揮しますが、欧文や鍵盤鑽孔となると全く苦手のようで、私のような意外の人間が賞を採ることもあるようです。
 
 その後、私は運用係りから整備係へ配置替えとなりましたが、もともと機械いじりが好きな性分だったので個人的に電子部品をいろいろ持っていたので、修理の要求があると、その部品を使ってすぐ修理するので上司から重宝がられていたようです。

 このようなことが後に(株)セナーへの転職の一因になったのかもしれません。私が転職への決意した頃、無線講在学の三年間も在職期間として勤続三十年の大臣表彰と銀杯を戴き、さらに退職金と年金が支給されて、現在もありがたく恩恵に浴しています。
 まことにありがとうございました。(後略)


JGC会総会26年秋
                   (ご参考 26年10月 JGC会総会 於・横浜)↓
 
26年10月JGC会

 
| トンツー談義 | 2015.01.15 Thursday | comments(0) | - |
賀正 平成27年元旦
賀正27年
 





 
 










賀 正 2015年元旦 
杉目 暁(すぎのめあきら) 
                        kfb06422@nifty.com
 
あけまして
おめでとうございます。 
  いつも「トンツー談義」をお読み頂いて、   
 ありがとうございます。
 平成18年に創刊の同誌は昨年末で91号に達し「トンツー談義全巻号」として、一冊にまとめました。


 どうぞ百年を越すモールス符号での無線通信の過去の記録と、現代の衛星利用のGMDSS通信への変遷をお確かめください。
  
  
 今後は不定期の通巻「続トンツー談義」として掲載の予定です。 引き続き御愛読ください。


なお、私は個々のお年賀状は欠礼させていただいています。
  初冬の小樽運河

 

 
| トンツー談義 | 2015.01.01 Thursday | comments(0) | - |
続 ・トンツー談義(92)ある少年志願兵の記録 −防府海軍通信学校にて−
少年志願兵 昭和18年2月、16歳になると同時に、お国のお役に立ちたいと少年電信兵の募集に応じて海軍を志願し,山口県の防府市三田尻に建設中の「防府海軍通信学校」へ第66期普通科電信術練習生として入校しました。
 
まだ右も左も判らない子供に無線電信機(送信機、受信機)やトンツーのモールス信号を教え込んで、当時の海軍の教員も、さぞ大変だったろうと思います。
 でも習う方は必死でした。朝から晩までモールス符号の合調音「イトー・路上歩行・ハーモニカ・・・」と皆で大きな声で合唱し、教員の送る発信器から出るモールス音と一致させて一つの字として受信紙に記入しなければならず、慣れるに従って半年後には一分間に60字くらいのスピードとなり、10か月くらい経つと80字が普通になりました。時々は100字位までの送受信訓練に挑んだこともありました。教育期間が進行するに連れて毎週送受信の試験があって、誤字一字につきバッター一つを戴いて我々練習生は誤字を出すまいと必死に覚えたものでした。
 ほかに暗記受信や遅れ受信などの高度ものにも挑戦するようになり、常に頭の中には2~3字が記憶されていてコツを覚えたら相手の少々早いスピードでも余裕を持って送受信できるようになり、相手からの質問にも直ぐ返事ができて楽な交信に進めて、後日、海上保安庁での職場でも遭難船の状況など聴きながら伝声管で船橋へ逐一知らして役にたちました。当時は郵便局や駅などでカチカチと音響音で交わすモールス通信もありましたが、これはできません。
 また櫛ヶ浜無線通信所で実際の電波で学校との間の無線通信の訓練を受けました。ほかに毎日新聞電報を受信したことも覚えています。外国の短波放送では知らないニュースを耳にできて思い出の一端です。
 
 教育期間は一か年で新兵教育も並行して行われ、入団するまでの小・中学校の修身の教育では、すべてが自己責任で勉学に励み、知識才能を伸ばし、学校卒業後は世の人々や社会のために仕事に励むように教え込まれたものですが、今度は海軍々人として死を賭して国を護れとの精神教育を受けました。国防の第一線に立つものとしての心構えを座学の時間には叩き込まれ、この中で現在も心の奥深く残るのは「五箇条の御誓文」と軍人勅諭の一部で、それに「スマートで目先が効いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」の一言がありました。これは、戦後、海上保安庁で「正義仁愛」の旗印の下、巡視船乗組員として密航密輸の検挙と遭難船の救助に大変約立ち、基礎教育での手旗信号も身に付いていてありがたいです。
 とくに私は軍人勅諭で言う「礼儀・信義・質素」をわが家の家訓として子育てにも重きを置き、人間社会のなかで 礼儀を忘れず、お互いに信頼し、贅沢をしないと言うことが 最も大切なことと信じています。このほか、学校では「自分の国は自分で護り、それが先祖伝来の故国を護ることになる」と教えられました。
 しかし当時の戦況は日ごとに悪化し、「繰り上げ卒業」が実施されて、私は10ヶ月で192月に原隊の佐世保海兵団へ復帰しました。                    (続く、26/12 中尾照男記・写真)

 
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